築城年代は定かではないが鎌倉時代初期の建仁2年(1202年)杉原伯耆守光平が備後守護職として下向し、築城したのが始まりとされる。
杉原氏の嫡流として代々続くが、次第に庶流である鷲尾山城主の木梨杉原氏や山手銀山城主の山手杉原氏などが台頭した。
また南北朝時代の康安2年・正平17年(1362年)には、山名時氏が宮田直貞を用いて備後を攻略し八ツ尾城も落城し、一時的に山名氏の配下で宮田氏などが城主となっていた。
八ツ尾城は府中町の北側に聳える標高345mの八尾山に築かれている。主郭の直ぐ南下の曲輪に妙見社が祀られており、府中八幡宮から続く登山道は山頂ではなく、この妙見社まで続き、さらに奥の七ッ池方面へと縦走路が付いている。
八ツ尾城は山頂の主郭を中心として四方八方へ伸びる尾根に曲輪を配している。 主郭は南北に長く広い。妙見社のすぐ上にありながら、あまり整備されていない。北尾根に一段の曲輪があり、先端に土塁が付く。その下にはこの城の一番の見所である堀切があり、弓の字状の二条の堀切が北と北西の尾根を遮断している。その先の鞍部にも堀切状の窪地があるが両側に道が付いているので切通のように見える。
比較的大きな曲輪が連なるのが東の鉄塔へ続く尾根で、階段状に削平地が続き鉄塔のある先端に至る。この南下には鉄塔への道がそのまま堀切を通って付いている。
登山口でもある府中八幡宮は、八ツ尾城主となった宮田備後守政輝が「宮ノ壇」に祀ったのが始まりといわれ、現在の八幡宮から50m程登った地点に石碑が建っている。
府中八幡神社から登山道が付いている。ここから登ると林道へと至る。東へ少し行くと石段の参道が、西へ回り無線中継施設付近からは尾根道が、また鉄塔を経由する山道もある。
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