築城年代は定かではないが伊賀伊賀守によって築かれたと云われる。
陰徳太平記 巻61「備中国四畦忍山城没落之事」、安西軍策 巻6「備中国忍山城没落事」として登場する。
吉川元春によって美作国で数箇所の城を落とされた宇喜多直家は、この恨みを晴らす為、忍山城に宇喜多信濃守、岡剛介を配置し毛利方の城の攻略を目指した。しかし、これを察知した毛利方は毛利輝元、吉川元春、小早川隆景など大軍をもって攻め寄せた。まず吉川経言が攻め寄せるが、宇喜多側の援軍が押し寄せるのと報を聞き退ぞく気配を見せた。 これを見た城方は城から打って出たが、逆に経言が諸軍に下知を成して攻め寄せた為に城方は後陣から崩れ城中へと逃げ返った。 勢い付いた経言は山下を焼き打ち城を取り囲んで、夜半に城中に火を放ち外から攻め寄せた為、城中は混乱しやがて落城した。
忍山城は備前備中の境となる勝尾峠の西にあり、南北に伸びた山に築かれている。
忍山城は北城と南城の二つで構成しており、南城が主郭であろうか。
南城は曲輪iと曲輪iiiが一段高く、曲輪iiで繋がる。北尾根は巨大な堀切とやや浅い二条の堀切で遮断している。内側の大堀切の東側には橋台とも取れる小さな段が両側に築かれている。側面から竪堀8の上部を経て曲輪ivに入るが、曲輪ivの部分は後世の改変があり、曲輪iの東側面に竪堀10の位置との関係が気になる。一方西側面は畝状竪堀群9を設けている。
北城は曲輪vを主郭とし南端に曲輪viとなる。南尾根は堀切6を設けているが、他より浅く明瞭ではない。北尾根は内側が大堀切でその外側にやや小さな連続堀切あるいは連続竪堀を設けている。現在の登り道は西側面から堀切4を経て曲輪vに登る道があるが、さらに側面を南へ移動し曲輪viの北下に入るルートがある。この場合畝状竪堀群3の上を通過することになる。東側面は北から東へ迂回するのを防ぐために竪堀2があり、東尾根は堀切5で遮断する。
登山道は観音院にあり駐車も可能。本堂の東にある溜め池の北側から東の山へ入って行くと林道があり、その上から山に入る道がある。
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