築城年代は定かではないが大永年間(1521年〜1528年)に金川城松田氏の家臣服部伊勢守によって築かれたと云われる。
その後、松田氏家臣の伊賀氏の居城となるが宇喜多氏の台頭してくると、宇喜多氏と血縁関係を結び、松田氏の居城である金川城を攻めた。
天正2年(1574年)毛利氏が虎倉城に侵攻してきた時、伊賀久隆はこれを退ける戦功をあげた。しかし、宇喜多氏は外様である久隆が邪魔となり暗殺しようとしたが失敗する。 久隆没後、伊賀与三郎は毛利氏を頼って備中に逃れると宇喜多氏重臣の長船越中が居城とする。天正16年長船一族の不仲により越中は死亡し城は焼失した。
虎倉城は市場集落の北に聳える標高320m程の山に築かれている。蛇行する宇甘川が巡り、周囲は切り立った山容で天然の要害で、東西に伸びた尾根に曲輪を配した連郭式の山城である。
主郭部は山頂にあり、西に二段の腰曲輪、東下には東西に長い曲輪があり、先端が一段小高くなる。南東の尾根先には両側を削り落として細い土橋とした道があり、その先の標高318.2mの峰に出丸がある。
主郭の西下には大堀切があり、そこから緩やかに降る斜面に出丸があるが、この辺りは重機によって切り開かれた道によって破壊されている。一度尾根を下りそこから少し登った「歓喜山」と呼ばれる所も出丸で、ここには慰霊碑が建立されている。
県道31号線から市場集落に三十番神社という入ると小さな神社があり、ここに案内板が設置されている(地図)。
登山道はここから細い道を北へ進み、道なりに西へ曲がり、川に架かる橋を渡らずに川に沿って北上していく。やがて林道となっていくがその先に架かる橋の手前に駐車することができる。そこから奥へ進むと登山道入口の看板が出ている(地図)。
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