築城年代は定かではないが承久年間(1219年〜1222年)に松田盛朝によって築かれたと云われる。
文明15年(1483年)の福岡合戦では、山名氏の援軍を得た松田元成が赤松・浦上氏の籠る福岡城を攻撃し、翌年攻略した。しかし、勢い付いて浦上氏の居城である三石城を攻略しようと侵攻したが反撃にあい敗走中に自刃する。
永録11年(1568年)宇喜多直家によって攻められ、松田元輝・元賢が討死して落城し、松田氏は滅亡した。宇喜多氏はその後、浮田春家を城主にする。
関ヶ原合戦で宇喜多氏が滅亡すると小早川秀秋が備前に入国したが、このとき支城となったかどうかは定かではない。 小早川氏に替わり池田氏が入封すると家老日置忠俊を置いたが一国一城令により廃城となった。
金川城は旭川と宇甘川が合流する地点の北西にある標高221mの城山山頂に築かれている。
城山の三角点がある部分は北の丸で、その南にある北西から南東に伸びた尾根の北西端に本丸、南東端に二ノ丸。本丸から南西側の尾根には道林寺丸がある。
主郭には石碑や案内板が設置されている。北側に土塁が付き、北西側がやや高い地形で外側に石積が残っている。この北土塁の下に「天主の井戸」と呼ばれる大井戸があり、直径は約5m、深さも相当なもので、この井戸だけでも金川城を見る価値がある。本丸の南東、二ノ丸に通じる虎口は食い違い虎口の外側に桝形を設けている。
二ノ丸は南東端にあり「杉の木井戸」と呼ばれる窪地の底に石組み井戸が残っている。そこから南東へ降りる道筋に出丸があり、その東斜面に連続竪堀が付いている。
本丸の北にある北の丸との間には「白水の井戸」があり、これも石組井戸である。北の丸は南北二段の曲輪で一部土塁があり、北へ続く尾根は二条の大堀切で遮断し、その奥には両サイドに二条ずつ竪堀を設けている。
本丸から南西に伸びた尾根にある道林寺丸は最高所の曲輪は土塁が付き、そこから南西尾根に階段状に曲輪を配している。部分的に石積が残っている。
登山道の入口は二箇所あり、南麓の県道31号線沿いにある御津町郷土資料館の前から妙覚寺の西側を入って行くと案内板と縄張図の書かれた資料が置いてある。(地図)
もう一つが北区役所支所の前で、こちらはひたすら階段を上り二ノ丸に至る道である。(地図)
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