築城年代は定かではない。 南北朝時代に須々木氏の居城であったともいわれるが定かではない。
金川城主で西備前一帯に勢力を拡げた松田氏の一族宇垣氏が代々居城とし、天文年間(1532年〜1555年)から永禄5年(1562年)頃には宇垣一郎兵衛が城主であった。
永禄11年(1568年)宇喜多直家によって金川城の松田氏が滅ぼされると、徳倉城も宇喜多氏の手に落ち、宇喜多の重臣遠藤河内守が城主となった。
関ヶ原合戦によって宇喜多氏が滅び、小早川秀秋が備前に入部すると廃城となった。
徳倉城は高尾山から北へ伸びた山塊の先端頂部、三谷川に面した標高232mの山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂にあり北側に妙見宮が祀られている。主郭東中央にスロープで登る虎口が設けられており、この周辺は高石垣で固められている。隅が落ちている部分も多いが、残っている部分を確認すると算木積みになっている。主郭南端には石垣で固められた土壇があり、中央に階段が設けられている。この南背後は東側が高石垣になり、西側は低いが下方にもう一段石垣が築かれている。
主郭から東下に下ると曲輪IIと曲輪IVのへの分岐があり、谷の起点部分に井戸が残る。北に続く尾根には曲輪群IVがあるが、石垣は確認できない。曲輪IIは東辺に石垣があり、北東の曲輪Vに続く段曲輪の一部に石垣が確認できる。
主郭の南下には土塁のある曲輪IIIがあり、南尾根は堀切4で遮断してある。
主郭から東へ伸びる支尾根は、北側は標高160m付近に曲輪VIがあり、そこから下った標高130m付近に曲輪VII、先端には堀切1を設けている。中央の支尾根は曲輪Vの先に堀切3がある。南の支尾根は曲輪VIII、IXがあるが加工度は低く自然尾根に近い。堀切2の北側にも出丸とされる削平地があるがこのあたりも加工度は低い。現在の大手道は谷筋から堀切2へ登っているが、本来は曲輪VIと曲輪Vの間の谷を登っていたと考えられている。
徳蔵神社には城主の宇垣一郎兵衛の供養塔がある。
徳蔵神社の近くの県道61号線沿いに案内板が設置されて、路側帯に駐車可能である。
大手登口は西の川沿いにあり、主郭裏の搦手を下るルートを降りてくると一周できる。
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