詳細不明。城主は山口与一兵衛光政が伝えられ、康正元年(1455年)山名氏によって攻められ落城、光政は土橋の辺りで自刃したと伝えられている。
『御津町史』には日置氏関係文書のなかに残されていたという江戸時代の見取図が掲載されている。
土師方城は旭川東岸にあり、少し内側に入った標高200mほどの山に築かれている。
山頂部に広い曲輪群があり、最高所に曲輪I、西下に曲輪II、東下に曲輪IIIがあって南側の帯曲輪でつながっている。曲輪Iの虎口は北西側にあり、スロープの先端は土塁になっている。
曲輪IIの南側面に一部石積みがあり、曲輪IIIとつながる帯曲輪は淵がやや高くなっており土塁があった可能性がある。この帯曲輪のところにやや張り出したAと折れBがあり、下方には短い横堀状地形と畝状竪堀群2がある。そこから西に犬走りが続き竪堀3と4の間を降りて行く山道が確認できる。
畝状竪堀群2は曲輪に近い部分にやや短い畝状竪堀群、その下方にV字に竪堀を組み合わせて斜めに伸びた遺構がある。
西尾根先端側は曲輪IIの先端に二重堀切5があり、南側は2条の竪堀が付いている。更に下方の尾根が急坂になる手前に堀切6、尾根の先端部分には「妙見様」と呼ばれる社跡が残っている。
東背後の尾根は大堀切1があり、この堀切から伸びる竪堀は100m以上続いている。南側面は畝状竪堀群2、北側面は三条の竪堀が確認できる。
主郭から北へ伸びた尾根は下方に浅い堀切7と竪堀7が確認できる。『岡山県中世城館跡総合調査報告書 』掲載図ではその間に腰曲輪が一段あるようだが、藪でやや崩れているところもあり未確認である。
主郭の北西下には岩盤の下に二ヶ所の溜池が掘られており水ノ手と考えられる。
西尾根先端から妙見様に登る道は西麓にある墓地の奥から付いているが、現在は部分的にヤブに埋もれている状態で登りづらい。
もう一つ、北の溜池に続く道から墓地を経て東背後の尾根に登る道があり、これが登りやすい。
車は北麓にある土師方公民館に駐車可能。
最寄り駅(直線距離)