築城年代は定かではないが嘉吉年間(1441年〜1444年)田淵氏光によって築かれたと云われる。田淵氏は伊勢国田淵を名字の地とした一族で、赤松満祐に仕えたという。
田淵氏ははじめ赤松氏。のち浦上氏に属してここを居城としたが、永禄7年(1564年)松田氏によって攻め落とされたという。
その後は、金川城松田氏の家臣橋本氏、更に宇喜多氏が備前を征すると宇喜多氏の家臣岡豊前守家利の居城となった。
天正7年(1579年)には宇喜多家臣明石行雄が白石城の普請に携わったという。
旭川と長谷川が合流する地点の北側にある山に築かれており、現在は山頂にテレビ塔が建てられ登山道が整備されている。
曲輪は山頂の主郭から南西方向に伸びる尾根に段曲輪を連ねており、途中から北西側の尾根にも曲輪X、XIの二段の曲輪がある。
この城の最大の特徴は北山腹の堀切2、3と畝状竪堀群4である。弓形状に尾根を幅広く掘り切った2つの堀切は中央の竪堀で合流する。その堀切に向かって主郭側から14条の竪堀群が落ちてきている。一般的に畝状竪堀群の起点となる上部は揃っているのが多いが、ここはバラバラである。
曲輪X、XIの東側には巨大な竪堀1があり、曲輪XIの下方で西の谷側に折れて落ちている。
南西尾根の曲輪VIIIの堀切5は堀切を埋めたもので、両側に竪堀が残っている。北側には石が露出しており石材もやや大きめである。
北麓の国道484号線沿いに登山口があり標柱が建っている。駐車場はないが、北に塚の鼻古墳、白石城主田淵家の墓があり、その入口には駐車可能である。
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