築城年代は定かではない。 建武3年(1336年)の湊川合戦で楠木正成を敗死に追い込んだという大森彦七郎盛長の一族、大森次郎左衛門尉盛清によって築かれたと伝えられる。
天正年間(1573年~1592年)には毛利勢が宮路山城を築いて境目を固め、鍛冶屋山城にも普請して確保していたが、のちに宇喜多勢に奪われた。
天正10年(1582年)羽柴秀吉の軍勢が宇喜多勢力と合流して鍛冶山城に入り、対岸の宮路山城と冠山城を攻めこれを攻略した。
その後は宇喜多家臣信原(延原)土佐守が城主で関ヶ原合戦の頃まで存続していたという。
鍛冶山城は足守の城下町の北東に聳える標高171mの山に築かれており、山頂近くに無線塔が建っており車で登る事も可能である。
主郭I1を中心として広範囲に遺構がある巨大山城であるが、ほぽ全域が荒廃した竹藪に埋もれており見学するのは容易ではない。比較的見学し易いのは北東の曲輪群IVと畝状竪堀群2のあたり、畝状竪堀群1も車道から見ることができる。
主郭部I付近には織豊系の石垣と思われるものが点在しており、南西側には隅石も確認できる。防空監視哨のあるところが一段高く櫓台のようでもあるが、改変によるものかもしれない。
曲輪群IIは曲輪IXに続く南尾根を除いて堀切や畝状竪堀群による遮断が確認でき、主郭側の尾根も大きな堀切14を設けていることから独立性が高い。あるいはこの曲輪IIを主郭とする城があり、その後に拡張されて現在のような広大な城域となった可能性も考えられる。
南端の曲輪IXは南尾根を三重堀切24で遮断するが、北側には堀がない。鉄塔があり改変されていることも考えられるが、切岸も北側が緩く自然地形に近いことから鍛冶山城の一部とみなせる。ちなみにさらに南に進むと植之町東陣、植之町西陣がある。
畝状竪堀群は横堀下方、堀切下方、堀切上部に設けられたもの、尾根上に設けられたもの、側面、谷筋に設けられたものなど多種多様である。
城山の北東麓にある筒井坂集落側から無線中継施設まで車道が付いている。そのまま普通車で山上まで登ることができ、終点から主郭までは徒歩1分くらいである。
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