築城年代は定かではない。南北朝時代に南朝方の新田一族によって築かれ、八ツ石城とともに新田氏一族の拠点となったとも考えられているが、詳らかではない。
戦国時代には白地城主大西出雲守頼武の弟(あるいは三男)で、伊予国轟城主でもあった大西備中守元武の城となっていたが、天正5年(1577年)長宗我部元親との戦いで落城し、元武は伊予国宇摩郡妻鳥村で逆徒に襲われ憤死したという。
その後の動向は定かではないが、現在残る遺構から長宗我部氏によって改修されたものと考えられている。
東山城は吉野川の北岸、標高401mの城山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂にあって南北に長く、北東隅が入隅状になっており、それに面して土壇がやや高くもられ小さな社が祀られている。中央南側には塚状の集石があり、この上に標柱が建っている。虎口は西中央に平入で開口している部分があり、その可能性がある。
主郭の南西下に腰曲輪ii、西下に帯曲輪iiiがあるが、帯曲輪の南端は横堀状になり、北端は虎口か竪堀のような形状となる。
曲輪i、ii、iiiの主郭部を南は横堀4、東は横堀5、北は堀切6、7、8の三重堀切で厳重に遮断しており、徳島県の山城としては異例の縄張である。横堀4は弓形状で両端を竪堀として落とすが、この構造は伊予や土佐の山城で確認できる。
北尾根を遮断する三重堀切は堀切6が大きく尾根を遮断し、堀切7は東端が竪堀として伸びず、逆に堀切8は東端が屈折しており、三条の堀切はそれぞれ特徴的である。ここから北の尾根は緩斜面地形であるが、やや離れたところに堀切9がある。
主郭の南東下に東屋の建つ曲輪ivがあり、堀切1と両側に竪堀2、3がある。不確定であるが、曲輪ivの造成の仕方に不自然さを感じており、後世に削平された可能性はないだろうか。そうした場合、竪堀2と3は本来堀切でこの尾根は二重堀切で遮断していたということも考えられる。
『徳島県の中世城館』の東山城の項に「本田の報告では城跡の南東500mの尾根上にも北側に壁を巡られた曲輪があるとされるが(『事典』)、今回の調査では確認できなかった。」とあり、その報告にある遺構かわからないが、約500m離れた尾根先に小さな社2つが祀られた所があり、曲輪らしき形状をしている。ただ北側は崩落し、西尾根には林業による溝が多数あってこの地形が即城郭遺構とは断言できない。
登山道入口は南麓の敷地から線路を渡って東の尾根先に向かって登って行く細い車道沿いにある。ただこの道は踏切のところで軽自動車または二輪のみ通行可能となっており、普通車では入ることができない。
一般的に県道4号線から東尾根上にある団地の方に上がる道があり、そこから歩いて林道を登ると先程の登山口に行くことができる。車は適当なもう少し山側に進んだ辺りに路駐可能である。
最寄り駅(直線距離)