築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に信藤周防守正国によって築かれたと云われる。その後、信藤氏が七代続き、享禄年間(1528年〜1532年)に信藤周防守正親が下野して廃城となった。
その後、大西備中守元武によって城が修築され居城となった。 天正5年(1577年)長宗我部元親は大西氏の居城である阿波国白地城を攻め落とし、大西覚養は弟で長宗我部氏の人質となっていた大西頼包の説得に応じて長宗我部氏に降った。 天正5年(1577年)松尾城主の真鍋大炊介通近が長宗我部氏に通じ、大西元武は長宗我部軍と戦ったが敗れ、山川国秀の屋敷へと逃れたが、敵に取り囲まれ自刃して果てた。
轟城は北へ張り出した轟山に築かれていた。 轟城は尾根の北端頂部に主郭、北に北郭、南に南郭があったが、松山道の建設によって主郭部は消滅している。
現在は南郭が公園となっており、一段小高くなった土塁に石積がなされているが、どこまでが本来の城の遺構なのかわからない。北下には土塁が付いた曲輪が残り、南郭から北へ伸びた尾根の先端に案内板が設置されている。
国道192号線が松山道の高架下を潜る辺りに土佐街道へ入る旧道がある。ここから入った所に「轟山入口」の石碑が建っており、これが城山の入口。(地図)
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