延慶2年(1309年)安芸親氏によって築かれたと云われる。 安芸氏は蘇我赤兄の子孫といわれ、行経のとき安芸氏を名乗った。
戦国時代に入ると土佐七人守護の一人に数えられた。永禄6年(1563年)長宗我部氏が本山氏を攻めに出陣した隙を突いて、一条氏の援助を受けて長宗我部氏の居城岡豊城を攻めたが失敗した。 その後一旦和睦となったものの、永禄12年(1569年)長宗我部氏に岡豊城に招待された国虎はこれを謀略と考え拒否、長宗我部氏に攻められ落城、安芸国虎は菩提寺浄貞寺で自刃し、安芸氏は滅亡した。
安芸氏を滅ぼした元親は香宗我部親泰を城主とし、後の阿波国への侵攻の拠点となった。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦で長宗我部氏は改易となり、替わって山内一豊が土佐に入国すると、一豊は重臣五島為重を安芸城主とした。元和の一国一城令によって安芸城は廃城となったものの、その麓に土居廓中を整備し、五藤氏の城下として明治まで続いた。
安芸城は安芸川に面した小山に築かれていた。山頂には土塁と虎口の残る本丸があり、南に大きく二段の曲輪が築かれていた。
安芸城の南麓には江戸時代に五藤氏によって整備された土居廓中があり、土塁と水堀で囲まれた曲輪がある。南が大手で土橋が架かり、その先は石垣の枡形がある。城内には天守を模した歴史民族資料館とその隣にある書道美術館、そして五藤氏の屋敷が残されている。書道美術館の前には安芸城が落城した原因の一つともされる、毒井戸が展示されている。
城主安芸氏の菩提寺は浄貞寺で安芸国虎の墓などが文化財に指定されている。
安芸城の駐車場は南側ではなく、東側から民俗資料館に続く道路に駐めるようになっている。
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