築城年代は定かではないが布下氏によって築かれたと云われる。 布下氏は西麓の布下に居館を構え、楽巌寺城主であった楽巌寺雅方と行動をともにした布下仁兵衛雅朝が知られる。
天文17年(1548年)武田氏の侵攻によって落城し、布下雅朝は楽巌寺雅方とともに村上義清を頼って落ちた。しかし、天文22年(1553年)村上義清も武田氏に敗れて信濃を去り、布下氏は武田氏に降った。
『高白斎記』に「天文十七年五月乙亥十七日信州布引ノ城鍬立」とあり武田氏に取り立てられ、望月新六、つづいて諏訪刑部左衛門頼角が布引城主となった。
堀ノ内城は楽巌寺城の西500m程の所に築かれていた。 堀ノ内城の主郭部は北側のややなだらかな地形となった所であるが、ここは現在宅地や畑となっている。この北の主郭部に通じるのが車道一車線分ほどの細尾根で東西両側は急斜面になっている。この尾根の途中に堀切と土塁の付いた小郭がある。南の尾根道の入口にあたる所には二重になった三日月堀の遺構が残っており、この城の最大の見所である。