築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)に楽巌寺雅方によって築かれたと云われる。楽巌寺雅方は楽巌寺の僧で武勇に優れていたことから、望月信雅の旗本となり楽厳寺城を築いて居城としたという。
天文17年(1548年)武田信玄によって楽巌寺城、堀ノ内城は落城し、望月氏は武田氏に降ったが、楽巌寺雅方は堀ノ内城主布下雅朝とともに村上義清を頼って落ちた。天文22年()村上義清が武田信玄に敗れて越後へ落ちると楽巌寺雅方は武田信玄に降り、永禄10年(1567年)には武田氏に忠誠を誓う起請文を生島足島神社に捧げている。
楽厳寺城は千曲川南岸の高台の上に築かれている。 布引観音として知られる天台宗釈尊寺の入口にあたり、千曲川に面した崖を背後に南に大手を開いている。
大手門と云われる城の遺構は林道布引線の入口であり、食い違いの土塁の南側に水堀が残されている。この虎口の東側は内側に空堀を設けた小さな曲輪がある。一方西側は林道となっている部分の外側は急斜面で、土塁に沿ってさらに西へ行くと大きな空堀で南北に分かれた曲輪が二つある。
南の曲輪は東西に長く土塁が巡り、南隅が虎口となっており、その外側は空堀が屈折している。
千曲川を布引大橋で渡り道なりに登っていくと布引観音への林道入口がある。この舗装林道の終点(始点)が楽巌寺城の大手門となっている。
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