築城年代は定かではないが高梨氏によって築かれたと云われる。 高梨氏は清和源氏井上氏流の後裔を称しているが、古代東北の阿部氏の出とする説もある。須坂市にある高梨氏館が発祥之地とされる。
永正年間(1504年〜1521年)の高梨政盛の頃に中野氏を降して中野に入部したとみられ、この政盛によって中野小館と詰め城である鴨ヶ嶽城が築かれたとみられている。
甲斐武田信玄が北信濃に兵を向けると、高梨氏は上杉謙信と連携してこれに対応したが、永禄年間(1558年〜1570年)初期頃には高梨氏は飯山城に逃れていた。永禄4年(1561年)上杉謙信が関東に出陣して小田原北条氏を攻めていたとき、高梨氏は上杉氏の居城の越後国春日山城の留守大将を務めていた。同年に謙信の帰国後、川中島で武田氏と激突した際には高梨氏は上杉勢の先陣を務めていた。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺の変で倒れると上杉景勝は川中島一帯を所領とした。このとき高梨頼親は安源寺周辺の二千貫の地を安堵され、再び中野小館に帰ることができた。しかし、慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると高梨氏もまた会津へ移りは廃城となった。
中野小館は鴨ヶ嶽城を詰め城とした方形単郭の居館である。規模は東西130m、南北100m程で周囲は土塁と空堀が巡っている。 現在は高梨館跡公園として整備されており、発掘調査で検出された門跡一棟、礎石建物跡五棟、掘立柱建物跡七棟、枯山水の庭園跡などが確認され展示されている。