築城年代は定かではない。
城主は東条氏で長禄4年(1460年)に英多庄中条を東条遠江守が知行していたことが知られる。
天文19年(1550年)武田氏が村上氏の砥石城を攻めたとき、寺尾城主の寺尾氏は村上氏に叛して武田氏に味方したが、東条氏は村上氏に従っており、村上義清と高梨正頼が寺尾城を攻め落としている。弘治2年(1556年)武田氏は真田幸隆に尼巌城の攻略を命じ、高坂弾正の加勢もあって尼巌城は落城、東条氏は越後上杉氏を頼って落ちていった。
尼巌城を手に入れた武田氏は西条治部少輔に尼巌城の普請を命じ、武田氏の拠点として海津城ができてるまで重用された。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡して上杉氏がこの辺りを支配すると、東条遠江守信広が尼巌城主に返り咲いた。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると東条氏もこれに従って移っていった。
尼巌城は松代町の東に聳える標高780.9mの尼巌山に築かれている。
山頂の主郭から西へ伸びた尾根に堀切で区画して曲輪を連ねている。西端は三条の堀切を使って各尾根を遮断し、側面には竪堀を設けている。この尾根先から南西に降りて行くと一段の腰曲輪があり、そこから下方は岩場が連続している。
主郭の東側面は急坂であるが、尾根近くの山腹には畝状竪堀群を設けている。この尾根から奇妙山方面に登った標高760mの峰にも曲輪群があり、北東背後の尾根を連続堀切で遮断している。