築城年代は定かではないが永禄元年(1558年)小山氏の支流榎本高綱によって築かれたと云われる。また一説に文治元年(1185年)小山宗長が小山城の出城として築いたとも云われる。
榎本氏の後は近藤出羽守が城主となるが、結城氏・小山氏・皆川氏・北条氏などの諸勢力がこの地を争ったという。
慶長10年(1605年)宇都宮城主本多正純の弟本多忠純が一万石で城主となり、大坂の陣の後加増されて二万八千石を領したが、寛政17年(1640年)無嗣子断絶となり廃城となった。
城は本丸・二の丸・三の丸・太鼓曲輪・清安曲輪・馬屋曲輪などがあり、南に大手があったという。しかし、現在では土地改良により農地として整備され、大半の遺構が失われ一部残っているという土塁と堀を探したもののこれといった所はわからなかった。
大中寺には本多忠純の墓が残され大平町の指定文化財となっている。