詳細不明。末吉城より前に築かれていた城で島津当主が度々滞在したとされ、城内には第八代島津久豊の息女のものとされる墓が残っている。
永禄3年(1560年)島津貴久と伊東義祐との和睦を調停するため、将軍足利義輝が派遣した伊勢貞運は、この宝珠庵城にあった持宝院で両氏の会談が行われたが、伊東氏に有利な調停内容を不服とした島津氏が拒否して不調に終わった。
宝珠庵城は微丘陵地帯に築かれており、現在は宅地や畑となって遺構の確認は難しいが、堀跡らしきものが竹藪の中にある。
県道500号線に面して案内板が設置されており、その脇に「有馬厚軒先生墓地入口」と「史跡島津貴久公居館之地宝珠庵城趾」と刻まれた石碑がある。ここから中に数十メートル入っていった先の民家の脇にある墓地の一角に「宝珠庵城一字一石塔」、「持宝院跡」、「有馬厚軒先生の墓」そして「島津久豊息女墓」がある。