築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)に岩川氏によって築かれたと云われる。
延文4年・正平14年(1359年)島津氏久が相良定頼と末吉国合原で戦ったとき、氏久は大隅一帯の土豪に出陣を命じたが、この手取城主の岩川氏と日向国蓬原城主救仁郷氏はこれに応じなかった。この戦いで大敗を喫して薩摩へ退いた氏久は翌年に手取城に攻め寄せ、岩川氏はこれを支えられず佐多へ逃れた。
手取城は簑田川の南岸、桂集落から北へ張り出した丘陵に築かれている。 北は簑田川に面し比高80m程の断崖の急斜面であるが、南側の桂集落側は平地の地続きに近い地形である。
手取城は東西二郭で構成している。東端にある曲輪の裾に標柱が建てられているが、主郭は西の曲輪と思われる。
東の曲輪は東端にあって西側を堀切で遮断している。頂部の曲輪と北と東に小段が付いており、北の段からはつづら折りの道が北下へ伸びている。
西の曲輪は東西に長く二段で東西両尾根に堀切を設けて遮断している。 北を除く三方に土塁を設けているが、東側の土塁は端ではなく中間にあり、東を小郭として区画している。この両曲輪の間には北側に土塁を設け、南側を通路とした武者走りになっている。
県道63号線沿いにある笠木小学校から西へ500m程走ると、北の集落内に照願寺がある。お寺の西側の道を北へ進み道なりに西へ進んでいくと北側に少し開けた作業小屋のあり、その手前に北の山に入って行く道がある。この先が城山でそれなりの道が東端の標柱のある所まで付いている。