築城年代は定かではない。 鎌倉時代には恒吉大膳亮の所領であったといわれる。
応永年間(1394年〜1428年)の城主は山田忠道、永享年間(1429年〜1441年)には忠道の兄山田忠尚が城主であった。その後は一時島津忠親の所領となっていたが概ね肝付氏の所領として続き、天正4年(1576年)からは都城の北郷氏の所領となった。北郷氏はその後祁答院へ移り、かわって伊集院氏の所領となった。
慶長4年(1599年)庄内の乱で蜂起した伊集院忠真は、恒吉城に一族の伊集院惣右衛門を城主として守らせた。島津方は島津図書頭忠長、志布志地頭の樺山久高、松山地頭柏原左近将監有国の三名が恒吉城を攻め、樺山久高の策によって三日間の攻防で落城した。 その後は寺山四郎左衛門久兼が地頭となったという。
日輪城は月野川に面した旧大隅町恒吉役場支所の南東背後の山頂に築かれている。 日輪城はシラス台地を利用した群郭式の山城で、山頂の主郭を中心として垂直に切り立った堀底道で区画された曲輪が設けられている。
県道495号線沿いにある旧大隅町役場恒吉支所の所に案内板と標柱が建っている。城山へはおそらくここからも登れると思われるが、林道があり、それを利用して散策した。