築城年代は定かではないが平安時代末期に救仁院平八成直によって築かれたと云われる。その後、救仁郷氏(くにごう)代々の居城となった。救仁郷氏の出自に関しては肝付兼俊の子兼綱を祖とする説など諸説あり定かではない。
延文4年・正平14年(1359年)島津氏久は国合原合戦の時、蓬原城に援軍を求めたが応ぜず大敗し、一旦退いたのち再起をはかって蓬原城を攻め落とした。
天文15年(1546年)には肝付兼続が蓬原城を攻め城主救仁郷頼世は降り、大野出羽守が地頭となる。大野出羽守は弘治2年(1556年)豊州家島津忠親と大崎で戦って討死した。天正4年(1576年)島津氏の所領となった後は伊集院久信が地頭となった。
城は菱田川の西岸にある独立丘陵に築かれている。深い空堀によって区切られた三郭で構成し南端が本丸という。
西側の道路に面して石碑が建ち、その脇の畦道を進むと本丸北の空堀へと通じる。現在山上は薮となっており遺構の確認は難しい。