築城年代は定かではない。南北朝時代には楡井氏が領していたが、畠山氏と禰寝氏によって攻められ落城し、頼仲は弟頼重とともに胡麻ヶ崎城へと退いたが、弟頼重は討死し頼仲も自害して楡井氏は滅亡した。
楡井氏を滅ぼした畠山直顕は延文3年(1358年)日向国穆佐城にて肥後の菊地氏に敗れて敗走し衰退、志布志城は島津元久が領して新納実久が城主となった。
新納忠続の時、伊東氏の備えとして飫肥城へと移されたが伊東氏に飫肥城を奪われ、改めて志布志城主となる。七代新納忠勝の時には勢力を拡大しようとしていたが都城城主北郷忠相、串間城主島津忠朝の怒りをかって攻められ忠勝は降伏した。新納氏の所領は北郷氏と豊州島津氏で分領となった。その後永禄5年(1562年)頃に肝付兼続が所領としたが、肝付氏が島津氏に降伏すると志布志城は鎌田政近の所領となり、元和の一国一城令によって廃城となった。
志布志城は内城・松尾城・高城・新城の四つの城郭の総称である。内城は志布志城の主城で規模も最も大きく、シラス台地に深く刻まれた空堀によって曲輪を区画した群郭式山城である。
新納氏の居館は現在の志布志小学校の所にあり、そこから大手を登ると矢倉場にたどり着く。矢倉場は旧新納家の墓地で新納家の祖新納忠久の墓が残る。矢倉場の北にあるのが本丸で、西から北側に土塁が残る。本丸の北が中尾久尾、その北に大野久尾と呼ばれる曲輪群がある。空堀は迷路のように刻み込まれているが、随所に現在値を示す案内板が設置されており、迷う事無く散策することができる。
登り口は複数あるようですが志布志小学校の裏に登り口がある。国指定史跡ですが駐車場が完備されていないのが難点。
最寄り駅(直線距離)