築城年代は定かではないが元弘年間(1331年〜1334年)足利尊氏によって築かれたと云われ、尊氏は妻の出である赤橋氏の所領とした。
その後、伊東氏、土持氏など南北朝の武将が争い、日向守護畠山直顕の拠点となった。
応永年間(1394年〜1428年)には薩摩国の島津元久が侵攻し周辺諸城を落として子豊久(後の8代当主)に守らせた。
文安2年(1445年)伊東氏が攻め取り落合治部少輔を置き以後伊東氏が豊後に逃れるまで伊東氏48支城の一つとなった。
穆佐城は穆佐小学校の西にある比高40m程の丘陵に築かれている。
群郭式の山城で曲輪群aからdまでで構成し、主郭は曲輪群bの部分で、西背後の曲輪群cとの間には大堀切がある。
旧穆佐小学校は東麓にあったが水害のために東へ移転し、現在校庭跡の一角にガイダンス施設がある。
東麓にガイダンス施設があり、神社の参道が入口。東側の入口には「市有地につき立入禁止」の看板があるが、これは古いものがそのまま放置されているらしく、そこから入って見学してもかまわないようである。
最寄り駅(直線距離)