築城年代は定かではないが文和年間(1352年〜1356年)清武氏によって築かれたと云われる。 清武氏は伊東氏の支族である。
伊東氏四十八城の一つであったが、天正5年(1577年)伊東氏が豊後に逃亡後は島津氏の領地となり伊集院久宣が城主となった。
豊臣秀吉による九州征伐の後は伊東氏の所領となり重臣稲津重政が城主となった。 関ヶ原合戦で稲津重政は高橋元種の持城である宮崎城を攻め落としたが、このとき高橋元種は東軍に恭順しており本領安堵が約束されていた。主君である伊東祐兵が没して祐慶に代替わりすると次第に疎ましく思われるようになり、ついに切腹を命ぜられたが、これを拒否して清武城に籠城し討死した。
清武城は標高85.6mの山に築かれている。
主郭に清武城の石碑があり、そこへの道標が至る所に建っているが見るべき遺構はあまりなく、周囲は民家や畑地が拡がっている。
車の場合は北側の道路沿いにある伊東祐堯墓所入口付近に駐車可能である。本丸まで道標がある。
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