築城年代は定かではない。 城主の木脇氏は伊東氏庶流で工藤祐経の子祐時の8男祐頼を祖とする。
永享6年(1434年)には島津軍と伊東・土持連合軍が木脇却生寺(こうしょうじ)前で戦ったが、これが現在城址近くにある興聖禅寺だと云われる。
伊東氏48城のうちの一つで福永民部四郎が城主であったが、伊東氏が豊後に逃走すると島津氏の平田宗応が城主となり、豊臣秀吉によって九州が統一されると、高鍋の秋月氏の所領となり、元和元年廃城となった。
木脇城は木脇小学校の東、興聖禅寺の北東背後の山に築かれている。
堀切を挟んで東西二つの曲輪があり、東が主郭となっている。西の曲輪は東西に長く北から西にかけて土塁が付く。東の主郭部は南北に長い曲輪で北端に櫓台がある。主郭の北、東、南下などに広い曲輪群がある。
主郭と西郭の間の堀切を南へ降ると鈎状屈折する虎口があり、これが大手道ではないかと思われる。そのまま下へ降りて行くことができるのだが、道は荒廃した竹藪に消えている。
『宮崎県中世城館跡緊急分布調査報告書』の縄張図には記されていないが、この主郭部から北西に伸びた尾根の先にある峰にも曲輪がある。途中に堀切があり、その先に曲輪群があるが、主郭と比べると切岸は低い。
興聖禅寺の南側の道を東へ進んでいくと案内板が建っている。ここから山へ入って行くことができるが、荒廃した竹藪で苦労する。
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