築城年代は定かではない。建武2年(1335年)に図師随円・慈円父子がこの城を拠点に南朝方として兵を挙げたことが知られる。
慈円は北朝方の縣城主土持宣栄に攻められ落城した。
戦国時代は伊東氏の城で一族の伊東県氏が居たが、文安3年(1446年)島津に内応したことから伊東祐堯がこれを奪い取り、家臣の落合彦左衛門を置いた。
天文3年(1534年)伊東家の家督を継いだ伊東祐吉が宮崎城を居城としたが、天文5年に病没。祐吉の兄義祐が還俗して家督を継ぎ、佐土原城から宮崎城へ一時居城を移したが、都於郡城へ移り、宮崎城には肥田木越前守が守将となり伊東氏48城の一つとなった。
天正6年(1578年)伊東氏が没落すると島津豊後守忠朝、天正8年には上井覚兼が城主となった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の後は延岡の高橋元種の所領となり、家臣の権藤種盛が置かれた。。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で、東軍に属していた飫肥の伊東祐兵の部将稲津掃部助は西軍に属した高橋元種の宮崎城を攻め落としたが、高橋氏は東軍に寝返っていたことから宮崎城は高橋氏に返還されるという「稲津騒動」の舞台となった。
宮崎城は池内町の西に南北に連なる標高100m未満の低丘陵一帯に築かれている。
本丸である「椎城」の他、「服部城」、「斉藤城」、「長友城」、「彦左衛門城」などの名称が各曲輪に付けられており、これらは曲輪の守将に由来するものと考えられる。現地では北から「服部城」、「目曳城」、「本丸城」、「百貫城」、「彦左衛門城」の表記が道標などに出ている。
南北に伸びた丘陵に築かれた曲輪は広く、その間を空堀で区画している。北端は「服部城」で西背後を土塁と堀切、東尾根も堀切で遮断する。本丸の南には東西に分かれた広い曲輪があり、東へ降りて行くと南北に巨大な空堀が走りその先に南北に伸びる細い曲輪がある。
更に南へ降ると彦左衛門城があり、ここからは堀切で区画された曲輪が南北に連なっている。南尾根には巨大な堀切があり、その先は荒廃した竹藪であるが曲輪と堀切が続いている。
県道44号線池内交差点の近くに大きな看板があり(地図)、そこから登るのが一般的なようで本丸の北側に出てくる。
今回これを知らずに南東側から登って彦左衛門城の辺りに出る登山道を利用した。この他服部城の所に出てくる登山道など多くの道がある。
最寄り駅(直線距離)