慶長17年(1612年)南部氏によって築かれ、縄張は南部家臣野田内匠頭直盛が行ったという。
最初の城主は新堀城主江刺隆直で二千石を与えて移駐させたという。南部氏は度々伊達氏と国境を巡って小競り合いがあり、伊達氏が築いた浮牛城に対する備えとして国境に近いこの地に拠点となる土沢城を築いた。江刺氏は葛西氏の重臣であり、奥州仕置きにより改易された葛西氏の旧臣を操る伊達氏を牽制する役目も担っていたとされる。 寛文10年(1670年)の総検地に際して廃城となり、その後も城内小路を統治所として七代続いたが江刺氏は天明元年(1781年)お家騒動によって断絶した。
城は猿ヶ石川の北岸にあり、南西に伸びた丘陵に築かれている。 御本館・中館・西館・東館・大手桜丸・斉雲郭などの曲輪で構成され、北東の山手の稚部川から山の中を樋を通して水を引き、水堀としていたといわれる。
現在は公園として整備されており、大手道である桜丸稲荷の所に案内板が設けられ、各曲輪に標柱が建てられてわかりやすくなっている。