建武2年(1335年)斯波家長によって築かれたと云われるが定かではない。 斯波氏は足利泰氏の長男家氏が斯波郡に下向し斯波氏と改名したことに始まる。
戦国時代には南部氏と戦うようになり、天文6年(1537年)には岩手郡を攻略したが、天正年間(1573年〜1592年)頃には南部氏に押され、南部の支族九戸政実の弟弥五郎が入り婿となって高田吉兵衛康実と名乗り高水寺城の出丸として吉兵衛館に住んだ。しかし、天正14年(1586年)高田康実が出奔して南部氏のもとに走ると再び南部と争うようになり、天正16年(1588年)には家臣の岩清水館主岩清水義教らが南部氏に内通するなどし斯波詮直は高水寺城を捨てて大崎氏の元に逃亡、高水寺斯波氏は滅亡した。
その後、南部信直は中野康実(高田康実改め)に高水寺城を与え、郡山城と改称して城主とした。郡山城は南部氏が盛岡城を築城する過程で一時南部氏の居城として利用されたが、寛文7年(1667年)廃城となり資材は盛岡城に転用されたという。
高水寺城は北上川西岸に聳える標高180.1mの城山に築かれており、現在は城山公園となっている。
高水寺城は山頂の本丸を中心に、北に天王平、姫御殿、南に若殿屋敷、観音平、南端から西へ伸びた丘陵に吉兵衛館、西御所などがあった。城の中心部は公園化による影響が大きく、遺構の残存度は決して良くない。探せば空堀や土塁などの遺構も見つかると思われるが、そこまでじっくりと見学していないので詳細はわからない。
城山公園で本丸下付近まで車道があり、終点に駐車場がある。
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