築城年代は定かではない。
天正16年(1588年)の高水寺城斯波氏攻略の功によって中野康実が片寄城主となった。
中野康実は九戸氏の出自であったが、天正19年(1591年)九戸政実の乱では南部氏方となっている。
天正20年(1592年)『南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上』には「片寄 山城 破 中野修理持分」とある。
慶長17年(1612年)康実の子正康のときに南部重臣御三家に列して郡山城へ移っている。
柳田館は漆原集落の西にある標高220m程の山に築かれている。
柳田館は南北に二つある峰とそこから東へ伸びた丘陵に築かれており、南峰が主郭となる南館、その東に東館、北の峰は北館と曲輪の名称かあるが、含めて一城である。東側を通っている東北自動車道建設によって東館の一部は消滅しているが、残存部は極めて良好に残っている。
曲輪となる北館、南館、東館などを取り囲むように大きな横堀が北、西、南を巡っており、南は上下二段、西も外側は浅いが二重、三重となる堀が巡っている。
漆原集落の道沿いに標柱がある。そこから林道を使って高速下を潜って入って行くと北側にある小川に橋が架かっている部分があり、そこから城内に入ることができる。未舗装だが車でそのまま行くことができる。
最寄り駅(直線距離)