築城年代は定かではないが河野通重によって築かれたと云われる。弘安3年(1280年)河野通次が通重の領地寺林郷に光林院を開山しており、それ以前に築かれていたと考えられる。
河野氏は伊予湯築城主で伊予の守護でもあったが、どのようにしてこの地を領していたのかは定かではない。
後に稗貫氏六代となった俊行は河野通次の嫡子となっていた。
寺林城と河野氏の関係は以降不明である。永享年間(1429年〜1441年)には落城しているが城主は不明で、天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置の後は浅野長吉(長政)の代官浅野六兵衛が光林寺に居た。
寺林城は光林寺一帯に築かれていた。寺の西にある墓地の北側に二重の空堀と土塁が残されており、これが明瞭な遺構である。光林寺は城の南東に位置し、南の山門と参道は折れを伴い大手の雰囲気がある。案内板は城の北側にあるルンビニー学園側の道路沿いに設置されている。
光林寺の境内には開基河野通重の宝篋印塔、稗貫俊行の墓、大和国岸田城主であった岸田伯耆守の墓などがあるが、宝篋印塔は修理中で拝見できなかった。