築城年代は定かではないが用土新左衛門によって築かれたと云われる。
用土氏は天文15年(1546年)藤田康邦は小田原北条氏に降って四男氏邦を養子に迎えて家督を譲った。この康邦が用土氏と名乗りを変えているが、千馬山城の用土新左衛門は藤田氏の分家筋の用土氏と推測されているようである。
上杉謙信に呼応して高松城に籠城していた秩父衆が北条氏に降ると、北条氏邦は千馬山城の用土業国と相談して人質を出すように指示している。
千馬山城は強石集落の北に聳える標高321mの山に築かれている。現在は埼玉県選定重要遺跡に指定されており、登山道が整備されている。
主郭は最高所にあり南東側に空堀を回してその下を囲むように二郭がある。主郭から北東へ伸びた尾根は険峻な地形で堀切が一条ありのみである。
二郭の南東下に横堀があり、一箇所鈎状屈折している。二郭から北東へ伸びた尾根は二重堀切で遮断しており、それぞれ竪堀として南東側へ落ちている。
二郭から南へ降りると三郭かがあり、その先端から西と南東の尾根に曲輪を展開する。西尾根は土橋が架かる堀切の先に物見とされる曲輪があり、現在草木が刈られて展望が開けている。南東尾根が現在の登山道が通じる所で、堀切と竪堀を施した尾根の先端に曲輪があり、南東端は土橋が架かる堀切になっている。
この城の特徴が二郭の南東山腹にある大きな竪堀と横堀による虎口形状なのだが、この部分は荒廃した竹林によって見学が難しくなっている。竪堀の部分は降りやすく、そこから横堀が伸びており、折れがついて虎口形状を成す。
県道82号線強石橋バス停から北へ川沿いに入った所に案内板が建っている。登山道はここから道なりに北東へ進んだ所にあり、北側に小さな龍ヶ谷城跡への道標が出ている。(地図)
最寄り駅(直線距離)