築城年代は定かではないが、戦国時代に久長但馬守によって築かれたと云われる。
鉢形城の支城で、永禄12年(1567年)に阿佐見伊勢守が武田軍の侵入をいち早く察知して「吉田の楯」に連絡して事なきを得た。また武田軍を撃退した功に対して北条氏邦から感状が与えられた。この吉田の楯を龍ヶ谷城とする説が一般的なようである。
天正18年(1590年)小田原征伐によって主家が滅亡すると、久長但馬守は上杉景勝に仕えたという。
龍ヶ谷城は北の山塊から南東へ伸びた尾根に築かれている。
北西から南東へ伸びた尾根は曲輪のある部分が広く緩斜面となっており、この部分に三条の大きな空堀を設けて尾根を遮断している。南東へ伸びた尾根は主郭部より先は切り立った岩で、この細尾根に堀切を一条設けている。
空堀で区画された曲輪の内部は全体的に削平が甘いが、その中には屏風折れの土塁と浅い堀の付いた段など、築城途中か改修中のような遺構が残る。また、南端の主郭の南西下には天然の岩の間が虎口のような空間がある。
南山腹にある別荘地?の最上段に水道施設がある。この部分に駐車でき、そこから尾根伝いに行くことができる。(地図)
未確認であるが、北を通っている車道からも行くことができそうである。
最寄り駅(直線距離)