築城年代は定かではない。文明10年(1478年)に太田道灌に攻められて鉢形城を逃れた長尾景春が一時この日尾城に籠もったとも伝えられる。
永禄年間(1558年〜1570年)には鉢形城の支城として諏訪部定勝の居城となり、永禄12年(1569年)武田信玄の部将山県昌景の攻撃を防いだが、このとき定勝は泥酔しており、奥方が替わって陣頭指揮を執ったとの伝承もある。
『寛政重修諸家譜』によれば、定勝は天正16年12月17日に53歳で没し、定勝の子定吉が継いでいる。この諏訪部定吉は小田原落城後も北条氏直に仕えて高野山へ出向き、氏直没後に大坂の陣を経て徳川家に仕えている。
日尾城は観音院の奥にある牛首峠の東側山頂に築かれている。
天然の要害で牛首峠の部分は堀切のような天然の切り通しになっている。この東側に主郭があり、峠の西側にも土塁の付いた曲輪が一つ存在している。
西の出丸は細尾根の先に西側を土塁として残した曲輪が一つあり、その周辺は崖地形で天然の要害となっている。
主郭は峠の東側にあり、西に開いた谷間を囲むように北と南にそれぞれ曲輪がある。現在日尾城の石碑が建っているのが北側の八幡曲輪で、北に土塁が残り、東に腰曲輪、北尾根を堀切で遮断し、堀切の先の尾根にも曲輪を連ねている。谷の南側は西に張り出した大きな曲輪と東の崖に面した物見台とされる曲輪がある。いずれにしても周辺は崖地形で天然の要害となっている。
観音院から観音山方向を経由して牛首峠を回って谷筋を巡る周遊ルートが整備されている。今回はこのルートを逆走する形で牛首峠で日尾城へ行き、観音院へ下山している。