元亀元年(1570年)花房職秀によって築かれたと云われる。 花房職秀は宇喜多直家の家臣で、毛利氏と敵対している最中に美作における宇喜多の拠点として荒神山城が築かれ、柴田与一郎・難波弥九郎・河内七郎左衛門・苔口宗十郎などが与力として付けられた。
花房職秀は後に職之と名を改め、美作における毛利方の神楽尾城・岩屋城攻めなどで戦功を挙げた。しかし、文禄4年(1595年)に主君である宇喜多秀家から死罪を命ぜられ、秀吉の取りなしによって常陸国の佐竹氏に預けられることとなった。それによって荒神山城も廃城となったという。
荒神山城は標高298mの荒神山山頂に築かれている。 現在は市指定史跡として登山道や道標などが整備されており、遺構の確認はしやすい。
主郭は山頂東端にあり周囲より一段小高い土壇がある。これを取り巻く二郭は西へ伸び、西端には中央が西へ張り出す屈折した土塁を持つ曲輪がある。その手前の南側に内桝形の虎口があり、その周辺は石垣で固めていた跡が残る。
西へ続く尾根は主郭に近い部分に二条の堀切があり、その先は平段が連なるものの段々と自然地形に近くなっていく。西端からは華教寺坂が北の谷間に向かって続き、これが現在の登山道となっている。
「美作国の山城」ではこの登山道を降りた辺りに「花房氏家臣団屋敷」が記載されている。ここは石垣と平段があるが、他の川沿いにも同様に石垣があるので特別なものではない。ただ川側に通路を残して石塁が確認できる。
主郭の南側には二段の腰曲輪があり、この辺りに石積があり軒丸瓦が落ちている。石積はここの他、金蔵の段、北の段にも確認することができる。
金蔵の段は主郭の北尾根にあり、北側に石積が確認できる。そこから谷間を横切り北東尾根に行くと四段の曲輪群があり、東側に通路が付く。ここから東斜面に連続竪堀が付いている。
県道449号線と広域農道の交差点から県道沿いに西へ入って行くと荒神山の案内板があり、その少し先に登山道入口の道標が出ている。 登山道はここから山の谷間に入り、川沿いに歩いて行くと西尾根の先端に登るように付いている。帰路はこれとは別に金蔵の段、北の段を経て下りていく道がある。
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