築城年代は定かではないが赤松孫三郎教弘によって築かれたと云われる。 赤松教弘は赤松円心入道則村の四代の孫という。
天文年間(1532年〜1555年)に尼子氏の軍勢が美作に進出したときには、尼子に属した錦織馬之助利路が在城していた。永禄年間(1558年〜1570年)頃には毛利氏の支配下にあり、元亀年間(1570年〜1573年)には宇喜多直家の家臣で荒神山城主の花房職秀によって落城し、河端丹後守秀家が在城したという。
嵯峨山城は吉井川南岸の標高288.8mの嵯峨山山頂から北へ派生した峰に築かれている。 現在は史跡公園として整備されている。
嵯峨山城の地は後鳥羽上皇や後醍醐天皇所縁の地である佐良山に比定されており、江戸時代の津山藩士によって建立された「佐良山碑」が主郭に建っている。 主郭は円形で周囲に低い土塁が付き、南と東に虎口を開く。いずれも東から南下に巡る帯曲輪に通じ、東は更に下方へと虎口が付いている。南東の尾根には横堀を配し、その両脇は竪堀となって山腹へ伸び、東側の竪堀は連続竪堀となっている。
わかりやすい登り口は東側の中島・平福側にあり、林道の入口に「嵯峨山城・佐良山碑」への道標が出ている(地図)。林道は狭く一般車両は通行できないので、どこかへ駐車してくるしかないが、駐車スペースも付近にはないので置く所を探すのも一苦労である。
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