美作 景清屋敷みまさか かげきよやしき
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南北朝時代の筑後守藤原景清の屋敷跡と伝えられる。貞治6年(1367年)江見・村上両氏の妬みを買って北の「因幡殿」という地で討たれたという。
景清屋敷は現在の宝性寺のあたりとされるが明確な遺構はないという。ただ、宝性寺墓地の南側にL字になった土塁状の地形がある。囲んでいるのは寺のほうではなく、南の宅地側のようである。
宝性寺の墓地の脇に筑後守藤原景清の案内板がある。また宝性寺東側の道路を北へ進んだ左側に「藤原景清終焉の地」の標柱があり、案内板にある「因幡殿」というところであろうか。