嘉吉元年(1441年)山名教清によって築かれた。 嘉吉の乱により赤松満祐に替わって山名教清が美作国守護職に任じられ、築いたのが岩屋城と云われる。
応仁の乱では山名政清が兵を率いて京に上り、山名忠政が岩屋城を守備していたが大内義弘に乞われて忠政も京に上ったため、赤松氏はこの隙に美作に侵攻し岩屋城を落とした。
文明5年(1473年)赤松政則が美作国守護職になると、その部将大河原治久を城主とした。 永正17年(1520年)赤松氏の家臣であった備前国三石城主浦上村宗が謀反をおこして岩屋城を攻略すると、中村則久を置いた。 赤松氏はこれに対して小寺範職・大河原治久らを送り攻撃させたが落城しなかった。
天文13年(1544年)尼子氏が美作に侵攻し尼子国久によって岩屋城、小田草城、医王山城などが尼子氏に降り、尼子氏によって美作が支配される。 しかし、毛利氏によって尼子氏は滅ぼされると毛利と結んでいた宇喜多氏に属して浜田家職が城主となった。
宇喜多直家は毛利を離反して織田信長の家臣である羽柴秀吉と組むと、毛利氏によって攻められ落城し、葛下城主中村頼宗が城主となった。天正10年(1582年)備中高松城の合戦で毛利氏と羽柴氏が和睦をすると、美作は宇喜多氏に割譲された。
美作国が宇喜多氏に割譲された後も岩屋城主の中村頼宗は城を明け渡さず、天正12年(1584年)宇喜多氏は岩屋城を武力によって制圧ことを決め、周囲に陣城群を築いて攻め立てた。しかし、数ヶ月に及ぶ攻城戦でも岩屋城は落ちず、やがて足利義昭の調停によって開城することとなった。
宇喜多氏は長船越中守を置いたが、天正18年(1590年)野火によって焼失し廃城となったと伝わっている。
岩屋城は標高482.7mの岩屋山山頂に築かれている。東に岩屋川、西に明谷川が流れる谷があり、その周囲には天正12年(1584年)宇喜多氏が岩屋城を攻めた際の陣城群が取り巻いている。
主郭部は山頂にあり、東の谷間を取り囲むように曲輪を配しており、山頂部の主郭から東へ東郭、二ノ丸、三ノ丸、南東尾根に馬場、そこから南へ続く尾根にも曲輪を配している。
主郭部一帯は非常に良く整備されており遺構の確認はしやすい。二ノ丸北の大堀切と東山腹にある巨大な畝状竪堀群が最大の見所である。
出雲街道である国道から岩屋川に沿って登山口に至る道筋には、砦跡や屋敷跡の標柱が建っいる。岩屋城を取り囲む陣城群は今でも良く残されているが、これを巡るのは道なき山を数時間も歩かねば成らず一般的には難しいだろう。しかし、遺構の状態が良く、比較的整備されている陣城が麓近く二つある。楽万の上砦と荒神の上砦がそれで、是非とも見学して欲しいものである。
国道181号線沿いに大きな看板がある。そこから岩屋川沿いの道を奥に入って行くと駐車場があり、そこに案内板と登山口がある(地図)。
最寄り駅(直線距離)