築城年代は定かではないが南北朝時代以前に上道是次によって築かれたと云う説がある。
南北朝時代には山名氏と赤松氏が美作の地を巡って争っていたため、山名忠重が在城していた。
天文13年(1554年)尼子国久が備中を経由して美作に侵攻し、浦上宗景に属していた岩屋城や小田草城を攻め落として引き上げた。
毛利元就が尼子氏を滅ぼすと、やがて医王山城も毛利氏の支配下となった。天正7年(1579年)宇喜多直家は織田信長に通じて毛利氏と敵対するようになると、医王山城にも押し寄せた。医王山城には湯原春綱が在番し、小川元政などが増援として送られた。城内からは宇喜多方へ内応するものなどが現れ、激戦は続いたが落城しなかった。 天正10年(1582年)毛利氏と羽柴秀吉が和睦すると医王山城は宇喜多氏領となった。
医王山城は加茂川西岸の南北に伸びた山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭Iは山頂にあり北と西辺に石塁が設けられ、北に虎口を開いており、南へ続く曲輪群は主郭の西下の通路を介して行き来している。主郭の北側は細い尾根が続くが、堀切が4、5条確認できる。
南へ伸びた尾根は段々に加工され南峰に曲輪IVがある。曲輪IVは西側に土塁があり、北端部分は穴蔵式の櫓台状になっている。中央やや南よりに南北に区画するような石列があり、その脇に南の曲輪V、VIに続く通路が接続している。
南尾根の先端には竪堀が長く伸びた堀切があり、その下方に畝状竪堀群が設けられている。先行図面では堀切の竪堀の外側、曲輪Vの側面にも畝状竪堀群が記されているものがあるが、風倒木の影響で根こそぎ倒れており、明確な竪堀遺構は確認できなかった。
東麓の岩尾寺に登山道の入口があり駐車場と縄張図入りの案内板が建っている。県道6号線から要所に医王山城への道標が付いているのでわかりやすい。
最寄り駅(直線距離)