築城年代は定かではないが和田氏によって築かれたと云われる。
箕輪城主の長野業政が没すると、和田城主和田業繁は武田信玄に従うようになり、永禄11年(1568年)和田下之城に弟正盛を城代として置いた。しかし、長篠合戦で和田兵部が討死、その後は小田原北条氏に従ったが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐によって和田氏も没落した。
和田下之城は下之城町第一公民館の隣にある小公園の辺りが本丸で公園に石碑と案内板が設置されている。土塁などの遺構は完全に消滅しているが、北、西、東の堀跡は水路として残っている。