築城年代は定かではない。
天正9年(1581年)羽柴秀吉による鳥取城攻めのときの城主は諸説あるが、樋土佐右衛門、あるいは田公高次で、毛利方の城であった。秀吉は鳥取城攻略後、羽衣石城に籠もる南条を救う為、馬之山砦に陣を貼る吉川元春を攻めた。このとき、大崎城下を通った秀吉は無理に攻めようとはせず、伯耆へ急いだ。その後、土佐右衛門は宮部継潤を通じて秀吉に降り、宮部継潤の家臣となった。
関ヶ原合戦で継潤の子宮部長房は当初東軍に属していたものの、西軍に寝返り伏見城、大津城攻めに加わって戦後に改易され、土佐右衛門は名を懸樋孫左衛門に改めて帰農したという。
大崎城は小沢見海岸の西に聳える標高94mの山に築かれている。以前は一面の藪城であったが、地域の方の努力により、非常に見学しやすい城に整備されている。
大崎城は最高所の主郭(曲輪i)から東の尾根先にある曲輪viiiまで一直線に続く通路の北側に段曲輪群があるのが特徴である。
主郭はやや分厚い土塁が全周い南西端にやや小さい櫓台がある。虎口は東に開口し、土塁はやや食い違うが交差するような食い違いではなくほぼ平入である。虎口に外側に小さな段があり、そこから曲輪iiの南側に折れる構造となる。
東端の曲輪iiiの南側には土塁が開口した虎口2がある。ここから東麓にある船溜まりの湾までつづら折れの道が続く。この道は新しく整備されたものではなく、以前きたときにもあった道である。
大崎城の東にある小沢見海岸にお城見学者用の無料駐車場(ロープは外してok)がある。そこから海を回るコースと峠を越えるコースがあり、途中合流して登山道入口に至る。
最寄り駅(直線距離)