詳細不明。『織豊系陣城事典』では織田方の大崎城攻めの付城としている。
大崎城付城は『織豊系陣城事典』に紹介されている城跡で、大崎城と谷を隔てて南にある丘陵に築かれている。
地元の方の話ではこの山(きつね山?)ではなく、北東側にある丘陵が攻め手の陣を敷いたところだと伺った。その場所も一応歩いてみたが、藪になっている部分は不明であるが、特に遺構らしきものは見当たらなかった。
大崎城付城はあまり見たことのない縄張で、山頂部の南側を堀込んで平坦面を造成し、南側は土塁となって虎口のように開口する。山上は自然地形そのままで、北側に切岸などを設けておらず、大崎城側から隠れるような形になるのだろうか。
曲輪の南下には淵に土塁状の高まりのある山道が続いており、この山道に対しては高い切岸となっている。山道は付城のある山と山崎城との間の谷間にも通っている。