築城年代は定かではない。元亀・天正年間(1570年~1592年)の城主は逢坂与十郎であったが、敵に攻められると細工谷の難坂を越えて青屋へ落ちていったという。
永禄年間(1558年~1570年)頃には毛利方の軍勢が在城していたという。
会下城は山陰道気高青谷トンネルの上の辺りに築かれている。
『鳥取県中世城館分布調査報告書 』では山頂を主郭としているが、山頂部はやや削平されているが城の遺構ではなさそうである。
主郭は山頂から少し南へ降ったところにあり、簡易水道貯水池のすぐ上の曲輪で、北背後を高土塁と櫓台状に残し、外側に浅い二重堀切を設けている。さらに北に土壇を挟んでさらに二重堀切があるが、これも浅い。
主郭か南東に伸びた尾根に段曲輪を連ね、南下に土橋が架る堀切を設けている。
南の農免道から旧林道に入ったところに案内板が設置されており、ここから尾根伝いに登るようにロープなども設置させている。車は少し上の墓地の辺りに駐める事ができる。
最寄り駅(直線距離)