築城年代は定かではない。肥前千葉氏の初代千葉宗胤が下向して最初に築いたのが晴気城とされる。千葉氏は後に千葉城を築いた。
南北朝時代の観応2年(1351年)足利直冬方の松浦党の勢力が晴気山に布陣し、翌年まで在陣していた。
文明18年(1486年)千葉家当主千葉胤朝が弟胤将によって討たれるという事件が起こる。このとき少弐政資は胤将を追い弟に胤朝の娘を娶らせて千葉胤資(西千葉/晴気千葉)と名乗らせ晴気城に入れた。これに対し、少弐に対抗する大内義興は胤朝の甥の興常を赤司城に入れて千葉家(東千葉/祇園千葉)支援した。
明応6年(1497年)大内軍の来襲によって少弐政資は大宰府を追われて晴気城に逃げ込んだが、ここも去って梶峰城の多久氏を頼った。しかしこれを拒絶されたため少弐政資は多久の専称寺で自刃する。晴気城の千葉胤資も大内軍と戦って討死、晴気城は落城した。この千葉家の東西分裂による内訌は天文年間(1532年〜1555年)のはじめに和睦となった。
晴気城は笠頭山から南東に伸びた尾根の頂部、標高225mの晴気山に築かれている。
南東へ伸びた尾根の先が三日月状のなった山頂に築かれており、地形に沿って曲輪が連なっている。北西背後の尾根は二重堀切があり、ともに竪堀が長く山腹へと伸びて尾根を遮断する。
主郭は北西尾根の付け根の辺りにあり、綺麗に削平された曲輪となっている。ここから東へと曲輪が続くが、先端部は削平が荒くなる。一方南下には大きく二段の腰曲輪があり、城内でも最も広い曲輪となる。
東麓の本龍院から続く農道を使って上っていったが、途中で荒廃し藪の中に道が消える。
松葉集落から北西尾根側にある果樹園に繋がる農道がある。これを使って北西尾根からアクセスすると簡単に主郭に行くことができる。農道は普通車でも通ることができるが、途中に柵が二ヶ所ある。
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