築城年代は定かではない。武雄の塚崎城主後藤貴明が小峰城を拠点として度々大村領に侵攻したことから、大村純忠は風南城と歌舞多城を出城として守らせたという。
風南城には福田次郎右衛門・弟福田喜代左衛門・田崎藤之助・田崎新右衛門・弟田崎平右衛門・岩本杢左衛門・三根角右衛門・三根常陸・田崎志摩・田崎越中・一瀬善助・田崎近江・田崎与左衛門の十三名の侍と百姓が籠もって対応したという。
風南城は川棚川と石木川が合流する地点の南東の山頂に築かれている。
山頂に北西から南東を軸に長い曲輪があり、二段になっている。南東側は長い空堀で遮断しており、主郭は空堀側に土塁、さらに一段下がって帯曲輪を配し、帯曲輪は空堀に対して石塁を設けている。
空堀は尾根を数十メートルに渡って遮断しており、北側はそのまま竪堀となって伸びている。帯曲輪の石塁は北側はそのまま空堀に面して続くものと、北側を防御するものに分かれ丁字になっている。
案内板と石碑は城山の西麓、県道4号線から山裾を南へ入った所にあり、バス停の名がそのまま「風南城跡」のようである。
城山へは南側から林道が付いており、その終着点から少し薮をかき分けて入って行くと空堀へたどり着く。林道は一応舗装路で終点は未舗装であるが、近くまで車で行くことは可能である。
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