応永3年(1396年)鮎貝成宗によって築かれたと云われる。 鮎貝氏は応永3年(1396年)に成宗が横越館から鮎貝に移って鮎貝氏を称した事に始まるという。
鮎貝氏は成宗、宗盛、定宗、盛宗、盛次と続き、伊達氏の家臣となってからも「一家」として優遇され、鮎貝七郷を支配した。しかし、天正15年(1587年)鮎貝宗信のとき、隣接する最上氏に内通して謀叛を起こしたとされ、伊達氏によって鮎貝城が攻められ、宗信は最上氏を頼って落ちた。この後、隠居していた鮎貝盛次とその次男宗益が鮎貝氏の家督を継ぎ、柴田郡に所領が与えられ、鮎貝城は伊達氏の家臣が在番制で守り、最上領との境を固めた。
天正19年(1591年)伊達政宗が岩出山に転封となると、会津に入封した蒲生氏郷の家臣高井氏、村田氏が在番、上杉景勝の時代には中条氏、築地氏、下条氏、春日氏などが在番、江戸時代には御役所が設けられた。
寛文4年(1664年)米沢藩主上杉綱勝が嫡子なく急死し、一時は断絶となりそうであったが、末期養子が認められ米沢藩の家督は守られた。しかしその見返りとして所領は半減され三十万石から十五万石の大名となった。寛文5年(1665年)没収された福島城代であった本庄氏が移り以降は世襲して在番している。
鮎貝城は段丘の東端、現在の鮎貝八幡宮境内一帯に築かれていた。
八幡宮境内が本丸と考えられているが、江戸時代に御役所が設けられたことや、現在は住宅地となっていることなどから構造には謎が多い。
八幡宮の境内は台地の東端で西背後に分厚い土塁や櫓台、その外側にはl字になった堀跡が残されている。
八幡宮の東下から参道があり駐車場がある。境内にあるお堂の中に鮎貝城の復元模型が展示されているが、ガラス越しでよく見えない。
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