永仁元年(1293年)河津筑後守貞重によって築かれたのが始まりとも云われるが定かではない。九州探題北条兼時に従って長門から筑前に入国した貞重が築城したと伝える。
その後は筑前に勢力を拡げた大内氏の家臣杉豊後守興長と子の杉豊後守興運の居城であった。大内義隆が陶晴賢に討たれると高鳥居城は陶氏の軍勢により落城し杉興運は糟屋浜で自刃したという。その後、杉弾正忠重、杉権頭連並が在城したが、天正年間(1573年〜1592年)頃に秋月氏によって攻略されたという。
天正14年(1586年)九州を統一するべく北上する島津軍は、立花宗茂の籠もる立花山城を攻略するため、星野中務大輔吉実と星野民部少輔吉兼兄弟を高鳥居城に入れて守らせた。立花山城を攻め落とせず豊臣秀吉の九州征伐の大軍が九州へ上陸してくると、島津氏は肥後へ退いた。退く島津軍を追って出た立花宗茂は高鳥居城をも攻め落とし、星野兄弟は揃って討死した。
高鳥居城は標高381.4mの岳城山山頂に築かれている。
山頂から南そして西へ派生した尾根に曲輪が配されている。 山頂の曲輪は非常に狭く、北西下に一段土塁のある小郭がある程度である。ここから南へ降りた所に堀切が一条あり、そこからは西の尾根先に向かって広々とした曲輪が段々と連なっている。西の先端頂部は広く展望台になっており、ここから少し降った尾根先までが城域になっている。
この城の特徴は畝状竪堀で、主郭の北西下に畝状竪堀が近年発見された。主郭から南へ伸びた曲輪は東側面、さらに西へ転じた曲輪の南側面にもビッシリと畝状竪堀が残されているが、ほぼ藪の中に埋もれてしまっている。
山頂まで西尾根の展望台まで林道が通っているが一般車両は進入禁止になっている。須恵町の歴史民俗資料館に駐車場があり、ここから林道を歩いて登る。
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