築城年代は定かではないが天正15年(1587年)頃に筑紫広門によって築かれたと云われる。
豊臣秀吉による九州征伐の後の国割りによって上妻郡には肥前国勝尾城主であった筑紫広門が封ぜられた。このとき広門は山下城を居城とし、福島城を支城として築いたという。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦によって西軍に属した筑紫広門は改易となり、田中吉政が筑後一国を与えられ柳河城を居城とした。このとき福島城には城代として田中康政が三万石で入り、城が大改修された。
元和6年(1620年)田中忠政が嗣子なく没して除封となると破却された。
福島城は現在の八女公園一帯に築かれていた。八女公園が本丸跡で東に二の丸があり、これらを二重に取り囲む堀と曲輪があった。八女公園にある一段小高い土壇の下に福島城の石碑があるが、この土壇が櫓台の名残である。
現在は完全に市街地となっているが、絵図面と現在の地図を比べると、濠跡がそのまま水路として残されている部分を数多く見つけることができる。西は正福寺の北西側、東は福島小学校の東側、北は八女中央保育園の北側、南は新町交差点の北で、南東隅付近に福島八幡宮がある。この福島八幡宮の南側にある池が八幡濠の名残で、八幡宮は土塁の上に立っているようである。