築城年代は定かではないが嘉禎年間(1235年〜1238年)に西牟田弥次郎家綱によって築かれたと云われる。 西牟田氏は弥次郎家綱が地頭職として下向し、土着して西牟田氏を称した事に始まるという。
西牟田氏は大友氏に属して代々続いたが、耳川合戦で大友氏が大敗すると佐嘉の龍造寺隆信に従い、天正7年(1579年)には西牟田家周が生津城を築いて居城を移している。
西牟田城の所在ははっきりしないようである。 『福岡県の城郭』によれば、筑後市西牟田の流地区にあったといわれているようであるが、『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告xxix』の分布地図では、久留米市三潴町西牟田の西牟田小学校付近を示している。この地図は流公民館を指している。
ややこしいが、筑後市西牟田の西牟田小学校の南側にある寛元寺は、初代西牟田家綱が寛元元年(1243年)に建立した寺院で、西牟田氏の菩提寺となり、境内の片隅には永正9年(1512年)に造立された西牟田家綱夫妻の供養塔が残っている。