築城年代は定かではないが鎌倉時代に志賀能郷によって築かれたと云われる。
志賀氏は大友氏初代能直の八男能郷が大野荘志賀村をもらって瀬子に居館を構え、後に志賀城を築いて居城としたと伝えられる。
元徳3年(1331年)後醍醐天皇の命によって、志賀貞朝は岡城を築いて志賀城より移り、北朝方と戦ったと云われるが、志賀氏が直入郡に入部するのは応安2年(1369年)以降で、この時には騎牟礼城を居城としていた。
志賀城は大野川東岸に聳える標高202mの山に築かれていた。
東西に長く伸びた独立丘陵で南は大野川に面している。現在は大半が山林であるが、所々古墓の集石があり、かつては山全体に墓地が拡がっていたようである。
城の遺構は定かではないが、最高所の西端に土塁と櫓台状の地形が残り、東に向かって平段が続いてる。土塁の西側もさらに平地が続き、山の西端にも北から西に掛けて土塁状の地形になっている。山の北側斜面は畑となっているが、一部帯曲輪のような地形も残されている。
国道57号線から志賀集落へと入っていくと正面に大きな「志賀城跡」の看板が見えてくる。線路を越えた辺りにある空き地に車を駐めることができる。
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