築城年代は定かではないが入田親真によって築かれたと云われる。 入田氏は大友氏4代親時の子泰親が直入郡入田荘を与えられて入田氏を称した事に始まり、大友加判衆にも名を連ねる有力家臣であった。
天文19年(1550年)大友義鑑は嫡男義鎮(後の宗麟)ではなく、妾腹の八郎に家督を継がせそうと画策した。このとき入田親誠(親真)は義鑑派として廃嫡のお膳立てをしようと画策したが「二階崩れの変」によって義鑑が没した。家督を継いだ義鎮は、自分を廃嫡しようとした入田氏を攻め、入田親廉は小松尾城で自刃する。入田親誠は肥後の阿蘇惟豊を頼って落ちたが、惟豊は親誠を成敗して首を義鎮の元に届けたという。
親誠の子入田義実は後に赦されて豊後に所領を得たが、天正13年(1586年)に島津氏に内通して緩木城に立て籠もり、大友方に攻められ、翌14年に豊後に島津軍を引き入れた。しかし、豊臣秀吉による九州征伐が始まり、島津軍が撤退すると入田義実(宗和)もまた薩摩へ逃れた。
津賀牟礼城は緒方川と十角川が合流する地点の西に聳える標高346mの山に築かれている。比高100m程の低い山ではあるが、周囲は切り立った岩壁で囲まれており、登る事ができるルートは限られている。
主郭は標高346mの山頂部で広い曲輪がある。ここから北東、南の尾根に主に城郭遺構が展開している。
北東の尾根は北と東に分かれ、それぞれ曲輪が伸びており、その途中に堀切がある。特に東尾根の堀切は規模が大きく明瞭である。
南へ伸びた尾根は南端から西へ曲がった辺りに堀切があり、その南側の西側面と西尾根の北側面に畝状竪堀群がある。現在の登山道はこの尾根の北側の谷間を降りて行くルートとなっている。
近年整備された登山道が南側から付いているようであるが、具体的な入口は確認していない。おそらく「姿」集落ではないだろうか。
今回登ったのは北の「矢原」集落側からだが、尾根の先端部分から登らないと周囲は切り立った岩壁であったため登る事ができない。
最寄り駅(直線距離)