文治元年(1185年)緒方三郎惟栄によって築かれたと云われる。 緒方惟栄が源頼朝と不仲になった源義経を迎える為に築いたが、義経は大物浦を出港して豊後へ向かったものの、暴風雨により難破して到着することはなかった。
元徳3年(1331年)後醍醐天皇の命によって、大友一族の志賀貞朝が志賀城より岡城へ移り、北朝方と戦ったと云われるが、志賀氏が直入郡に入部するのは応安2年(1369年)以降で、この時には騎牟礼城を居城とした。
天正14年(1586年)島津氏が豊後へ侵攻して諸城が次々と落城するなか、岡城へ籠もった志賀親次は島津の大軍を尽く撃退し、天正15年(1587年)に豊臣秀吉による九州征伐軍が援軍としてくると、島津へ奪われた諸城を次々と取り戻していった。しかし、文禄2年(1593年)文禄の役で大友義統が失態を犯して改易となり、志賀氏も所領を失った。
文禄3年(1594年)播磨国三木より中川秀成が六万六千石で入封し、近世城郭へと改修していった。中川氏は摂津国の出身で、中川清秀が元亀3年(1572年)に和田惟政を討ち取って摂津国茨木城主となる。その後秀吉に仕えた清秀は賎ヶ岳合戦で大岩山砦を守ったが佐久間盛政の急襲を受けて討死、家督は嫡男秀政が継いで播磨国三木十五万石の大名となった。しかし、秀政は文禄の役で没し、その際の不手際によって所領半減となり、岡城へ転封となった。
慶長3年(1598年)総検地によって七万四百四十石が表高となり、中川氏が十三代続いて明治に至る。
岡城は稲葉川と白滝川の間に聳える比高100m程の台地の上に築かれている。 現在は国指定史跡として整備されており、摸擬も含めて建物が一切ない城跡であるが、有料で公開されている。石垣や曲輪など整備は非常に行き届いている。
主郭部は天満神社のある本丸、北下に二の丸、西下に三の丸が配され、西に太鼓櫓門を設けていた。本丸の南西隅には三重の天守が聳えていたが、初代秀成が築いた天守は明和6年(1769年)の地震で崩れ、安永3年(1774年)に再建された。この天守が明治まで存在していたが建物は全て取り壊された。
城の東端にある下原門が搦手、西端にあるのが大手門である。主郭部の西には城代屋敷、中川但見家老屋敷などがあり、谷を挟んだ北西側に中川覚左衛門家老屋敷、普請方などがある。
大手門の北側に西の丸の東門があり、その西上に西の丸があるが、これは三代中川久清の時に増築された曲輪で西の丸御殿があった。
総役所跡が駐車場となっており、ここから大手門へと登る道が付いている(地図)。
料金は高校生以上が300円、小・中学生150円でam9:00〜pm5:00までが利用時間となっているが、特に入城制限されているわけではなく、時間外でも散策することは可能である。料金を支払うと小型掛け軸風の絵図面入り巻物と「しおり」が頂けるので十分価値がある。
市立歴史資料館(地図)には竹田城の模型がある。
碧雲寺(地図)が中川家の菩提寺で、隣にある「おたまや公園」に歴代藩主の墓がある。
最寄り駅(直線距離)